『クソ野郎と美しき世界』は、新しい地図(稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾)の第一回製作作品として発足当初からアナウンスされていた映画だった。しかし上映期間が2週間と短い中、自分の観測範囲でひそかに参考にしている映画好きの人々も観ていないようで、良い反応も良くない反応も目にする機会がないまま、三人のTwitterによるともうそろそろ終わりか? 地上波ではまず見られないだろうと考えると、いましかない!……とりあえず劇場へ、と思いスケジュールを調べると、渋谷~新宿など主要地区の多くが満席だった中、夕方終了のちょうどいい時間の空席有りの回をTOHOシネマズ日本橋で見つけ、仕事を片付けてギリギリなんとか間に合うことができた。キリのいい翌日金曜日までかと思ったら、なんとその日が最終日だったという…。
感想を始める前にひとつだけ……鑑賞終了直後の感想ツイートに、ファンの方から多くのRTやいいねを頂いた。映画関係者でもマニアでもなく、特別大したことが言えてるわけでもない、一般の人の素朴な評価にそのような反応を頂けた理由について、浮かれるでもなくただ冷静に考えてみると、まさにその「一般の人の素朴な評価」こそ、ファンの人々が真に求めていたものだったのではないか、と。マスコミ向け試写会も無し、期間限定上映、と明確にコアなファンを想定したプロモーション展開のおかげで、ファン以外の普通の観客の声がなかなか伝わりにくい状況にあったのは事実だと思う。
では一般の人の自分はこの映画を観てどう感じたか。結論から先に言うと、『クソ野郎と美しき世界』は彼らの熱烈なファンが満足して終わりの閉じられた作品では決してなかったし、長い間エンターテインメントの第一線で活躍してきた彼らにふさわしい、しかも非常に新しい形の娯楽映画になっていた、と観終わって数日経ったいまも強く実感している。
「ピアニストを撃つな!」と、
B級映画の記憶
月に何本も新作を観に行くわけでもないごく普通の映画好きだけど、父方の祖父が映画の看板屋を営んでいた関係で、幼い頃から東宝・東映系の邦画の新作(怪獣モノに始まって、大人が観るような娯楽映画や角川映画など)を里帰りのたびにタダで観ることができた。そこから遡って60~70年代の日本映画にも少し触れたりして、邦画への愛情や記憶が身体の奥に染み付いているようなところはあるかもしれない。
昔の日本映画は、いい意味でのB級テイストが漂っていたり、アイドル映画がその後第一線で活躍する監督の実験場になっていたりと、とても自由だった。園子温監督のEp1「ピアニストを撃つな!」には、古き良き時代の活劇(アクション)映画のB級感覚やバッドテイストがぎっしり詰まっていて、冒頭数分からいきなり持って行かれた。園作品のトレードマークである「疾走」も健在だった。
馬場ふみか、スプツニ子などのキャスティングも絶妙で(とくに馬場ふみかはこれで完全に化けた)、実在の彼女たちじゃなく、ちゃんと物語の中の奇妙な人物としてそこにいる。浅野忠信や満島真之介の起用も含め、ありがちなキャスティングに囚われない新鮮さがあって、その中で吾郎ちゃんも安心してキレイ(でマッド)な貴公子になりきっていたと思う。
それと全編通して感じたのが、セリフが音響的にとてもクリア。音楽と会話にもメリハリがあって、そのぶん人と人との関わりがより強くこちらに迫ってくるように感じられた。
「慎吾ちゃんと歌喰いの巻」と、
非現実のような現実
「新しい詩」を除く3作では、このEp2「慎吾ちゃんと歌喰いの巻」が最も好みだった。現実と非現実がごちゃまぜになった少し不思議なファンタジー。香取慎吾の役どころも本人(慎吾ちゃん)。ここでもモデル出身の新人・中島セナ(撮影当時11歳)(ツイートより)の起用がこれ以上ないくらいハマっていた。この年齢差のコラボから、随分昔の「沙粧妙子−最後の事件−」での、ブレイク直前の広末涼子と慎吾くんの共演を思い出したり(曖昧な記憶…)。尾乃崎紀世彦のカタストロフの描写、慎吾くんの元おっかけだった刑事とか、ユーモアと恐怖が常に隣り合わせの面白さに引き込まれた。
3作の中では、ここまでのSMAPをめぐる騒動を最も直接的に扱っている物語だと思う。「歌喰い」という設定自体、もう彼らをずっと苦しめていた状況そのものだし。きっとぼくが気づかないだけで、沢山の隠されたメッセージをそこに読み取ることが可能なんだと思う。でもその種の謎解きはあったとしても、物語の前面に出てきて普通の観客を置いてけぼりにするようなものでは決してなかったはず。あの悲惨だった状況をこうしてフィクションや謎解きのようなネタとして扱えること自体、彼らの意識が既にミライへススんでいることの現れに違いない。
「光へ、航る」と、希望の光
実は最初、このEp3「光へ、航る」が始まってしばらくは不快な気持ちが続いていた 🙂 暴力描写がどうしても苦手で…。しかしその第一印象に反して、草彅くんのちょっとした表情とか、東北の田園地帯とアメ車のミスマッチ、尾野真千子扮する妻と草彅くんの夫婦の掛け合いのバカっぽさとか、何でもない場面が無意識のうちに、心の内側に次々と積み重なっていくのを感じていた。
そして、積み重なった自分でも何だかわからない心の堆積物が、最後の方のある場面で一気にどしゃーーっと音を立てて崩れ落ちる。別のツイートでも示したように、この場面は個人的なエピソードと強く結びついていた。ぼくが将来この世でやり残してしまうかもしれない無念な思いも、いつか自分の娘がきっとあんなふうにぼくのいない未来の世界へと繋いでくれるのだ、という希望と安心感を(剛速球で)受け取って、胸の奥が詰まりそうになってしまった。
この希望や安心感は、おそらく自分のように特別なエピソードを持たない人のところにも、草彅くんの渾身の演技と、太田光監督の才能あふれる画作りとストーリーテリングの力によって、同じように届いたのではないかと信じている。
「新しい詩」と、新しい映画の形
この映画の感想を記すにあたり、TBSラジオのムービーウォッチメンの宇多丸さんの録音を聞いてみた。辛口と言いながら、すごく細かいところまで丁寧に掬ってくれているなあという印象を持ちつつ、その中で宇多丸さんが《映画として》というワードを連発しているのが気になった。(『ペンタゴン・ペーパーズ』と同じ土俵で勝負するような)映画作品としてはまだまだ不足が感じられる、というニュアンスだったと解釈している。けど、誤解を恐れずに言うと、『クソ野郎と美しき世界』は、一見映画の形をしているけれども、従来の映画とは少し違った場所にいる作品だというのが、ぼくの認識だった。
『クソ野郎と美しき世界』には、映画や、地上波ドラマ、CM、ミュージックビデオといった別々の表現の要素が、渾然一体となって接ぎ木されている。それらの表現は全て、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾の三人がこれまで「演じる主体」として取り組んできた対象だった。それらを分け隔てたり、映画のフォーマットに行儀よく押し込めたりするのではなく、ひとつの作品という箱の中にごちゃまぜに放り込んだところが、この映画の「映画として」の枠に収まらない、既存の言葉では形容できない新しさであり面白さなのではないか、と。本当にこの映画を表す専用の言葉がほしい。心からそう思った。
先ほど「接ぎ木」という言葉を使ったが、それらの表現が最終的に接ぎ木される「元」でありゴールが、Ep4「新しい詩」で示されたように「音楽」「歌」「ショー」であったということが、今後の彼らにとってもきっと大きな意味を持つようになるだろうと思います。
新しい地図の三人のそれぞれの活躍と、彼らを支えるチームが起死回生の場所から仕掛けたプロモーションやブランディング戦略に、勇気とヒントをもらって、自分の絵を使ったとても小さなプロジェクトを始めようと思っているところです(追記:始めました!)。
でも、おそらくそこで絶対に真似できないと思うのは、彼らを支える熱心な沢山のファンの応援の力。それを思わぬ形で目の当たりにしなかったなら、GW進行の最中にこのような長い感想は書けなかったと思います。……ということで、また逢う日まで、逢える時まで。